虫の息ブログ

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滝口悠生「高架線」の書評と雑感

 

 現代の高度に情報化された社会でほんとうの意味で「いい人」であり続けることは、とても難しいことだ。なぜなら「いい人」であるためには、根底に人間への信頼という基礎が絶対的に必須であり、これがなければとうぜんなんにも成り立たない。この、ほとんど性善説とも思える高いハードルは一方向的に日々更新されていて、いつしかそれを越えられなくなったとき、人はもはやいい人ではいられない。人間という生物にたいして、根底から疑心を抱いてしまうからだ。この疑心は他者だけでなく、自己に対しても産まれ得る。

 

しかし、この作者の語りはいつも、どこか昭和的で牧歌的な、「いい人」なのである。

 

僕はこのからくりが知りたい。

滝口悠生はほんとうにいい人なのだろうか。

この現代で人はいい人のままでいられるのだろうか。

 

これは、そういう甚だ間違った視点で読まれた高架線の書評と雑感である。

「高架線」は、かたばみ荘に住んだ5人ほどの人物の視点によって、かたばみ荘を中心にして起こったことがそれぞれ語られるという小説だ。さて5人もいれば、それぞれの自己正当化によって記憶の改変がおこり、事実はねじれ、まったく異なる形の禍々しい「かたばみ荘」が現れることになるかと思うが、この作者の手にかかると、やはりまったくそんなことにはならない。

 

新井田千一の語りでは、学生時代の文通相手のことが語られる。

顔も知らない成瀬文香という女性のイメージが虚構であったことを語り手は自覚している。

しかし語り手は、自己と他者でつくりだした虚構の部分のみを、淡い初恋の思い出として、大切にしまっている。これは「かたばみ荘」とは直接関係ない話だが、非常に小説的なエピソードになっており企みを感じる。

小説とはそもそも虚構の集合体であり、これをどれだけ現実的な手触わりの虚構にできるかが、作者の力量であり、読者(僕)の力量でもあるから。

 

さて次の語り手は、新井田千一のあとに住んだ住人である片山三郎の友人の七見歩である。なぜだか次の住人である片山三郎は、この小説の語り手となって物語を引き継ぎ、自己を語ることをしない。七味歩をはじめとする語り手たちが、それぞれに映る片山三郎という人物像を語るのである。そして語り手たちもやはり自分については、あんまり語らない。つまり、自己というフィルターを媒介して、それぞれがそれぞれの他者を語りがちなのだ。

しかし、おそらく片山三郎が語る片山三郎よりも、他者にそれぞれ語られる片山三郎のほうが、どちらかというと信頼できる。片山三郎は他者によって、虚構というしがらみから、技術的に解放されるのだ。

これは作者が語り手を信頼していないという事実に他ならない。もしかして作者はいい人ではないのだろうか。いや、そもそも語り手が虚構であることにもっとも自覚的であるのは作者であるはずなのだが。

 

そのようにして、語り手、物語、かたばみ荘が、他者によってその質感をリアルにしていくさまは、虚構が虚構によりかかって依存して、存在しているともいえる。なんでそんなことをわざわざするのだろう。現実も、他者の存在と嘘によって形作られているいっぱしの虚構であることを、暴露しようとしているのだろうか。だとしたらやはりこの作者はいい人ではないではないか。それじゃあこの溢れる「いい人」感はいったい、なんなのだろう。

 

じっさい、かたばみ荘にまつわる物語は引き継がれ、引き回されて、かたばみ荘は最後に取り壊される。虚構は虚構によって丹念に構築され、虚構によって破壊されるのである。残ったのはいっそう強化されたそれぞれの虚構なのだった。そして虚構の残骸から突如現れたモチーフのあまりの嘘くささが、所詮、虚構は虚構であったことを、自ら悪びれもせず明かすという、ほんとうに、変な話であった。

 

どうか騙されないでほしい。

作者は高架線を走る電車から、看破した虚構の成れの果てたちを見下ろしながら、悠々と物語を去っていく。滝口悠生は、にくにくしい、たぶん本物の嫌なやつなのであろう。好き。