虫の息ブログ

生きているだけで、虫の息

死んでいない者の感想

いわく特殊な家庭環境で育ったため、これまで一度も親戚の通夜というものに出たことがない。そんな私も結婚して3年ほどになり、息子は1歳10ヵ月にもなった。自分の家系というものに執着がないばかりかむしろひとかどの憎しみすらあり、勝手に相手の姓になったろうかななどと無謀を考えたこともあったがさすがに臆してやめた。そうして私にも人並みに親戚ができたから、これから先のどこかできっと、通夜に出ることもあるのだろう。

 

さきほど「死んでいない者」を読み終わり、先んじてこれから参列するであろう通夜の擬似体験をしたような気持ちになっている。繋がっているようで、繋がっていない。繋がっていないようで繋がっている親戚たちの一夜を描いた本作の感想文を書く。

 

前述したように、86歳で大往生した故人の通夜に集まる一族郎党の、たったの一夜を描いた小説なのだが、総勢30名ほどの親戚たちが入り乱れ、それぞれの人生と、それぞれの思索を雑然と一斉に語り出す。スクランブル交差点みたいに。これがどうにもすごく通夜っぽい。スクランブル交差点といってもこれはどうしたって小説なのだから、それぞれ順番に語られるしかないのだが、この小説の変わったところは、語り手の視点が親戚たちの視点や思索をたゆたうように移りゆくところにある。

あと、入学式のその日にクラスメイトの顔と名前を一致させる気持ちにならないのと同じように、親戚たちの名前や関係性もぜんぜん頭に入って来ないし、入れようとも思わない。この喧噪感もまさに通夜っぽい。入学式は通夜のように静かだが(通夜のように静かという比喩は間違っていた)。

 

とにかくそういった今もどこかで行われているような通夜をただただリアルに描いた小説というなら、その目論見はとっても成功しているし、一夜とは思えない時間と空間の拡がりもあるのだが、敢えて小説の体裁をとって、特殊な技巧で表現することによる、「得心」するようななにかを私はほしがってしまった。だって、通夜の臨場感が描きたいなら、どこぞの通夜のドキュメンタリーを撮ったほうが面白いと思うもの。

 

 そして、それぞれの物語はおじいさんが故人となったその日を境に切り取られるから、その断面に現れた色とか模様とかにおいを見ているような趣はたしかにあるのだが、物語はその断面を見せたままぶった切られたままだし、この通夜っぽさの感覚が通常の小説作法では描けないものなのかと考えると、ちょっと私は疑問に思った。通夜に出て知り得る親戚筋による親戚筋の情報というのは、それはほとほと無意味なものだろう。その情報の切れ端を集めて、親戚の誰それのなにかを規定することにもとうぜん意味はない。つまりこの小説で語られることも、意味のない情報の断片に過ぎないし、その断片は断片ゆえにひどく曖昧で、不安定で、偏っているから、なんらかの形をとることもない。それが私はひどく勿体ないと思ってしまった。どうやったらいいのかはさっぱり分からないが、語られないことで立ち上がるなにかがあれば傑作だったのかもしれない。