虫の息ブログ

生きているだけで、虫の息

シェイプオブウォーターを3日間考察していたら、すっかり丸裸にしてしまった件

3日前の私は、シェイプオブウォーターは理性と欲望の戦いであると考えていた。しばらく三日前の私の考察につきあって頂きたい。

 

 理性を体現するのは、ストリックランドであり、まさしく冷戦時代までのアメリカにおける正しさの象徴である。夫婦の性交に快感があってはならないし、同性愛も自慰行為も、重大な道徳的退廃であるからとうぜん禁忌である。これらの制約はストリックランドの肉体への軽視にも現れる。いわば、精神世界へのひきこもりだ。また、おしっこの前にしか手を洗わないという超個人主義的な資本主義的成功と、神に近付くための身体性の放棄を両立させるというのは、破天荒というかなんというか、とにかく破滅への道としか思えない。

一方のイライザは欲望の象徴である。彼女にはまるで理性は見られず、皮膚感覚をもつ肉体の身体性こそをただただ体現する。日課の自慰行為のせいで遅刻寸前に出社してくるくせに、平然と行列に割り込むし、仕事はさぼるし、上司にはたてつくし、気のいい隣人をそそのかすし、しまいには映画館を水びたしにする。

この明確な対称性は、ストリックランドが言葉で、イライザが手話で対話することにも表れている。欲望のイライザに理性のストリックランドが誘惑されるのは、エデンの園で悪魔にリンゴを薦められて唾を飲み込むアダムのようであるが、ストリックランドはその誘惑に勝つのだから本当に鬼気迫るものがあった。

 

そうして理性と欲望は共倒れするという顛末だ。

 

 愛とはイコール欲望であるとするのはあまりに刹那的で安易に過ぎると思う。さらに肉欲と愛の強さが比例するという論理も、にわかに受け入れがたい。

しかし、ここまではまあ良いとする。私はストリックランドもイライザも、どちらも嫌いだが、そういった個人的な好悪を別にしても、この映画は駄作だ。もしかして、この映画を駄作たらしめているのは、あらゆる意匠を詰め込みすぎたことにあるのではないだろうか。なにより、しっくりこない。映画として、一貫性を感じにくいのだ。辻褄があわないのだ。

さて、ここでいう意匠とは、マイノリティへのあからさまな迫害や、トランプ大統領の唯一の愛読書である「ポジティブシンキング」をストリックランドに読ませるなどといった、いわゆるポリコレを全面に押し出した、アカデミー賞をとるための狡猾な「かぶりもの」のことである。

 

だが、デルトロ監督が自費を投じてまでこの作品をつくりあげたのは、作家性を守るためだった。この大いなる矛盾はなんなのか。あと、半魚人とはいったいなんだったのか。

 

そうして私は三日三晩悶々と悩みぬいて、あるとんでもない真相にたどり着いてしまった。ここからが、ようやく三日後のわたしの考察になる。

 


じつはストリックランドは理性の象徴ではなかった。というか、もっと厳密にいえば、彼はハリウッドの象徴なのである。

無慈悲な強権は商業主義の追及とプロパガンダの普及に注がれる。

そして同様にイライザは、作家性の象徴なのである。彼女の欲望は表現にたいする貪欲な渇望なのだ。

半魚人は、まさにそれらの作家性とハリウッド的な商業主義の、両方の側面をバランス良く持った生物なのだ。つまり、半魚人が象徴したのは、まさしくデルトロ監督その人であり、まんまとアカデミー賞を受賞せしめたシェイプオブウォーターという作品そのものなのだった。

 

こう考えると、さっきまでぼややんとしていた映画としての一貫性のなさに、一本の筋が通るのである。


観客の象徴になるのは、ジャイルズでありゼルダであろう。語り手のジャイルズにいたっては、この物語は愛と喪失の物語だとか、なんか勘違いしているのだなと思えるし、ゼルダが作家の作家性のために、ある程度の不条理を許容するというのは受け入れられる。ホフトステラー博士は、批評家を象徴しているか。

 

大衆をおおいに喜ばせつつ、痛烈な皮肉を背後に隠したまま、手練手管の映画界をも、まんまと騙す。

 

ハリウッド映画界に振りまわされ、辛酸を舐めさせられ続けてきた監督たちは、デルトロ監督の偉業に快哉を叫んだことだろう。

 

つまりシェイプオブウォーターとは、あまりに痛快なデルトロ監督の映画史に残る大勝利劇なのであり、作家性とハリウッド的商業主義の絶妙なバランスをとることに成功した半魚人的な怪物くんなのであった。


デルトロ監督はとにかくすごい人だった。これからは作家性だけを追及できるようになるといいですね。アカデミー賞おめでとうございました。私はそれを期待して次作を待ちわびることとします。