虫の息ブログ

生きているだけで、虫の息

コンビニ人間の書評のようななにか

 

芥川賞をとった村田紗耶香の「コンビニ人間」を文庫化まで待ったのは、単純にお財布事情が厳しかったせいもあるが、僕の見識のなさがなにより大きい。まさかここまでの作品をこんなに早く仕上げてくるとは思っていなかった。もちろんマークはしていたが、せいぜい対抗といったところ。ほんとうに失礼しました。コンビニ人間は紛れもなく村田紗耶香の最高傑作であり、文学と物語を超次元にリンクさせたなんとも凄まじくも驚くべき作品なのである。この感覚は中村文則の「遮光」以来ではないかと思う。国内作品ではじつに10年ぶりくらいの脳天直下型の衝撃で、まさに10年に一冊の本なのだ。ただコンビニで働くだけの話なのに。ただコンビニで働くだけの話なのに。

 

この小説、筋を追うとしても、どこまでもコンビニで働く話としかいいようがない。レジを打ったり、からあげ君を揚げたり売ったり、新商品を陳列したりしている。しかし、彼女のコンビニの仕事にたいする向き合い方はえげつない。休日はコンビニのための体調管理に余念がないし、安普請のアパートの布団の中でも接客している始末だし、とうぜん店頭に立てば五感を研ぎ澄ませて、コンビニの声を逃すまいと全身でこれを聴いているのだ。

 

主人公の古倉さんは、端的にいって普通ではない。

幼少の頃に、死んだ小鳥をみつけた彼女はそれを手の平に乗せて母親に見せ「これ、食べよう」と言ってぎょっとさせる。父親は焼き鳥が好きだから。

とうぜん小鳥は焼き鳥にはされず、即席の墓に埋められ、花を供えられるのだが、古倉さんは、大量の花の無駄死にと感じる。

ここで、読者は普通というものに対して疑念を持つことになる。

古倉さんはどこまでも合理的だ。小鳥が死んでいるし、やれちょうどいい。焼き鳥にしようと考える。小鳥を埋めて、花を殺すことはただただ非合理的で、意味が分からない。

事実、小鳥を土に埋め、花を供えるという行為には、無駄が多いし、人間の手慰みの比率が極めて大きい。わたしたちって優しい人だよねと言い聞かせながら頷きあって共感しあう、いわゆる普通の人たちのほうが、どこか異常性に満ちていると感じられてはこないだろうか。

 

たとえば、ブリーフ全盛時代を経て、トランクス、ボクサーパンツと変遷する男のパンツ事情だが、少数派になったブリーフを未だに履いている奴は、ただ少数派というだけで、とてつもなくださいし、やがて排除される存在でしかない。ところが普通の人間は、時流を読み、ブリーフ、トランクス、ボクサーパンツと無理なく自然に履きこなしていく。

 

つまり気兼ねなく社会を闊歩するには、なにより普通でならなければならないのだ。新品の人間がDNA情報をぜんぜんアップデートせずに、あまりに無防備、かつ無垢の状態で産まれてくるのは、おそらく変遷する社会に柔軟に適応するため、ボクサーパンツを履きこなすための処置なのだ。そうして我々に落とし込まれるのは、善悪、道徳、資本主義、多数派といった分類、属性としての正常だ。しかしそれらは時流に乗っただけの虚構の概念に過ぎない。すべからく「普通」になるための、「普通だと思い込む」ための洗脳教育であり、それが我々が当たり前に生きている普通人間による普通人間のための競争社会だ。

 

 

 コンビニ人間は、「普通」の鉈で「普通じゃないもの」を排除するいかがわしさを、あまりにも鮮明に描きだした傑作なのであった。

 

 

 

 

 

ちなみに村田紗耶香さんは芥川賞をとったことによる弊害で、大幅にシフトが減ってしまったが、今もちゃんとコンビニで働いているらしい。セブンかな。

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