虫の息ブログ

生きているだけで、虫の息

もう「はい」としか言えないの雑感

小説の冒頭で、この作家はいったい何者なのだと震撼してウィキペディアに行った方も多いだろう。松尾スズキは俳優であり、劇作家であり、コラムニストであり、小説家であることが分かったはずだ。しかしなにより自由律ハイカーであることを付け加えたい。


小説の冒頭、主人公である海馬五郎が帰宅すると、浮気相手の写真と、浮気相手の住所が書かれたメモが置いてあり、浮気がバレたことを悟る場面があるのだが、心情と情景を描写する一文がとにかくすごい。

「はじめは、わりと静謐なたたずまいでもって、それらはそこにあった」

無情な現実とはいささか乖離した呑気な描写で、たちこめる暗雲を示唆しつつも可笑しみを誘う。

これは、山頭火の代表的な自由律俳句「まっすぐな道でさみしい」に通じる凄まじい描写ではないかと思う。松尾スズキのこの一文も、山頭火の句も、おじさんの呑気な長閑さとか人の好さ、いじらしさみたいなものが、共通している。

松尾スズキのもう「はい」としかいえないは、こういった長閑で可愛らしい描写がそこかしこに散見される自伝的小説だ。作者演じる海馬五郎は妻と別れたくなかった。孤独な生活はもうこりごりだった。そこで妻から出される条件をえづきながら飲むのだが、その条件は苛烈を極めるものであった。「今後二年間、仕事でない限りは一時間おきに、スマホで背景込みの自撮りを送ること。そしてどんなに疲れていようが、二年間妻と毎日丁寧にセックスすること」

考えただけで目眩がするし、にわかに股間も痛んでくる。しかしこの条件を出した妻にとっても同様で、あまりに股間が過酷であろうと思える。その復讐の原動力とはなんだろう。それが作中で明かされることはない。

 

では不倫と罪がテーマなのか。

不倫は罪だ。思いっきり蛇足ではあるが、僕は不倫がきらいなのだ。小学5年生のとき、父親が得意げな顔でぼそっといったことに原因がある。

「おれ、やくざの奥さんと浮気してるんだ」

あのとき、父親がそれを誇らしく思っていることを幼心にたしかに感じた。そういったしょうもないことを自尊心とせざるを得ない人間の小ささに対する憐れみと、それを息子に自慢するという混迷した思慮に憎しみを感じた。こんな人間にだけはなりたくない。浮気や不倫は絶対にしないぞと固く心に誓った。これは道徳というよりも、自身を律する法であり戒めである。僕はそういう自らが定めた法律や戒律の数々に今もひいひい縛られながら生きている。父親があまりにもろくでもない人間であったし、それに振り回され続ける母親の大根役者ぶりも見ていられなかったから、繰り返される彼らの痴態によって、新しい法律や戒律が次々に立案され、立法されていったのである。

「子供の前でやめてください」「もう二人で一緒に死んじゃおっか」など、母親は一週間前に見たドラマのような台詞を臆面もなく吐きながら、ちっとも行動を起こそうとせず状況に甘んじ、やがてこれをすっかり忘れるため、大根女優としての名声をほしいままにしていた。両親にはそろってユーモアがなかった。同じことを松尾スズキがもっと違う台詞でやっていれば、これほどの憎しみを育てることはなかったのではないか。はたまた僕にもほんのすこしのユーモアがあれば、両親を喜劇役者のように見ながら自身も演じることで、狂った家族演劇を楽しめたのかもしれない。

 

さて作中後半で、パリのホテルの一室で若い女が主人公の膝に乗る場面があり、ここでようやく自身の煩悩と戦うのかなと思いきや、突如部屋に入ってきたハーフの通訳に、その戦いの火蓋をなし崩し的にかき消されるためまるで煩悶がない。どうやら不倫にもれなくくっついてくる罪がテーマでもないようだった。罪恐怖症の僕として気になるのは、罪はほうったままでも、快活に生きていけるものなのだろうかということなのだが、教えてくれないだろうか世間さま。

 

そろそろ作品を要約すると、浮気が妻にバレて、妻に規則を与えられたことによるストレスのために、仕事にかこつけて海外に逃げ、そこでも不条理な不自由を味わう。なんというか、どこまでも自業自得でしかない。

 

 つまりこの作品は、50も半ばを過ぎてもなおふらふらと所在なく、煩悩に振り回されまくる悲しい男の性と人生を描いた、とりたててテーマ性のない自伝小説なのだった。山頭火の自由律俳句に感じたおじさんの可愛らしさもこうして小説の体裁をとってしまうと、なんだかあざとく見えてきてしまうのかもしれないし、自身の煩悩の正当化を企図した毒抜きのようなものにしか思えなくなってくる。身の回りのあらゆる事象を優れた喜劇に構築しなおし、さらによりよい文章に言語化できるということは、とんでもない才能なのではあるが、同時にその才能は他者や因果、ときには自己さえもおざなりにしてしまうという危険を孕んでいるのではないか。

 

ひとつだけたしかなのは、あらゆる罪はユーモアによって酌量されるということである。