虫の息ブログ

生きているだけで、虫の息

恐ろしいのはウイルスなのか?

コロナウイルスによる現状の致死率はインフルエンザよりも低い。しかもインフルエンザの場合、合併症による死因をインフルエンザによる死因とはしていない。にも関わらずだ。我々はインフルエンザを侮っていたのだろうか、あるいはコロナウイルスを過度に怖れすぎているのか。
そもそも武漢のウイルス発生から起算すると、日本国内の感染はとっくに広がっていて、もはや一巡するほどになっていると考えるほうがよほど妥当である。
オリンピックによる外貨獲得に目が眩んだ日本は、中国からのウイルス輸入をいっさい止めなかったのだから、現状の感染者の発表がどれほど事実に則しているのか疑わしいのはとうぜんだ。ところがメディアはオウム返しに発表を伝えるばかりで、ただやみくもに疫病不安と自粛を煽るばかりだ。メディアはかきいれ時なのだろうが、いったいなんのためにある機関なのか。事実を伝える機関ではないのか。

PCR検査なんてしている場合ではとっくにないし、一刻もはやく抗体検査をするべきだ。つまり、国もメディアも現状を把握しようと努めるべきだということだ。


日本の自殺者は国家の通常営業時においても1日300人ほどである。死にいたった理由はさまざまだろうが、その多くに経済的な困窮があるだろう。今後自粛を続けていけば、この自殺者の数というのは、指数関数的に膨れあがってしまうはずだ。もちろん死に至る理由は経済的な逼迫である。この期に及んで国が充分で迅速な補償をしないというなら、これは国家が殺したようなものではないのか。そろそろコロナウイルスでの死亡者とならべて、経済的理由での自殺者の数も公表しないと、ウイルスで死ぬより経済的に死ぬほうが、より現実的であることが分からないのかもしれない。今回ばかりはさすがにお得意の自己責任では済ませられない。

ちなみにメディアはスポンサーを守るために存在している。メディアのお客さんは視聴者ではなく、とうぜんスポンサーである。そもそも事実を伝える義務などなかった。ではこの畏れの喧伝はなんなのか。もしかすると、国も大企業も、こぞって中小企業を駆逐しようとしているのではないか。そう邪推されてもしかたない対応をかれらはしている。

いまだにマスクが買えないが、相関的にみてマスクは大事だと思う。とにかくウイルスをたくさん吸い込まないことだ。少量のウイルスを免疫でこらしめよう。誤嚥にも気を付けたほうがいい。感染しないことよりも重症化しないこと。誰もがすでに罹患していると想定し、経済活動を続けるべきだ。僕はそうしている。個人経営の店主はマスクをつけましょう。

社会不適合者の子育て論

僕は虐待を受けて育った。自分不審、人間不信の社会不適合者である。綺麗事も大嫌いだ。蕁麻疹がでそうになる。そんな僕のような人間でも何故だか結婚して、驚くべきことに子供まで生まれた。結婚することだって勇気を振り絞ったくらいなのだから、僕のような人間が果たしてきちんと子供を愛せるのか途方もなく不安だった。しかし、もし愛せなくとも、おそらく可愛がれるのではないかと思って産んだ。もちろん僕が産んだわけではないのだが。彼が産まれてきた理由を上げるなら、猫なら可愛がれるのだから、子供も可愛がれるに違いないという理屈しか思い当たらない。

息子が産まれた直後に看護婦に抱かせてもらった。軽かった。すぐに返した。怪訝な顔をされた。特別な感情はなかった。しかし女性、そして出産という概念がなにやらもの凄いと思われた。しかし、息子を見ても、まったく可愛いとは思わなかった。とうぜん愛など感じなかった。

一緒に生活をしていると、日常というのは多種多様な危険を包括していることに気付かされた。それにも関わらず、息子はあらゆる危険を認識しなかった。息子は一人ではとても生きていけない生物だった。僕は息子を危険から守るために奔走した。一緒にいない時は、その安否にやきもきした。ふと夜中に起きると、息子がちゃんと息をしているのか、いちいち確かめた。1歳の時、飼い猫にひっかかれて驚いた息子が玄関前で転倒し、三針縫う怪我をしたときは、施術室の前で子供なんて産まなければよかったと思った。大量の出血に夫婦揃って大パニックだった。しかし我々は彼を案じていたのではなく、彼を喪失することを恐れていたのである。たぶん。もはや彼のいない人生など考えられなかった。

今思えば、たかが三針なのだから、大袈裟だった。そういえば、ついでに猫なんて飼わなければ良かったと思ったことも思い出した。怒りにまかせて、猫を放逐してやることがたしかに過った。ところが猫は今もいて、息子とも仲良くやっている。妻は猫を許せていないが、僕は許した。僕に似て、臆病な猫なのだ。

息子は三歳になった。こんなに可愛い生物をこれまで見たことがなかった。猫とか犬よりも、ずっと可愛い。「買い物誰と行きたい?」「パパが一人で行く」これは驚くべき事態である。助詞を完璧に使い分けている。人間嫌いの僕が、人間を好いている。では、愛しているかと自身に問うてみると、哀しい事だがこれには疑問符が付いた。息子はこだわりが強く、僕にいろいろと注文をつける。息子には息子の秩序や遊び方があり、僕にはそれがまるで理解できない。彼は僕をトイレに閉じ込めたり、カーテンの中に入れと言ったりする。聞かなければ泣きわめくので、僕はそれにしぶしぶ従う。他者に言われるがまま無思考で服従するという行為を、僕は心底嫌悪しながらこれまで生きてきたのだが、彼には従わざるを得なかった。そういうとき、心の底から、こん畜生とか、この野郎などと思う。しかし、靴をひとりで履いたり、猫と一緒に寝たり、お風呂の床で腹這いになって遊んでいたりすると、なにこれ可愛いと思った。こんな都合のよい感情をとても愛とは呼べなかった。

僕は育児という概念をとても傲慢なものだと思っている。僕のような社会不適合者が子供を育てるだなんておこがましいことだと思っている。そもそも、強欲の資本主義にとことん洗脳されきった大人が、正しいことを知っているだなんて、あまりにも白々しく馬鹿馬鹿しいことで、そんなことは絶対にあり得ないとも思っている。しかし、子供というのがすべからく善だと思っているわけでもなかった。子供には、善も悪もない。善悪は人間が社会を穏当に生きるためにつくった、人間による人間のための概念に過ぎない。つまり子供はいかようにも育ちうるということだった。であるならば、本当に必要最低限のことだけを教えて、あとは見守るしかないのではないか。そして、今をできる限り楽しむことが、彼が持つもっとも大切な役割であろうと思う。

冒頭で、僕は虐待を受けて育ったと書いたが、それは子供と一緒に生活しながら気付いたことだった.虐待という事象を相対化するつもりもない。ただ気付いたというだけである。漠然と抱いていた両親への嫌悪が、憎しみや怒りへと変わったというだけである。

 

さて、大人が子供に教えるべき、必要最低限のこととはなんだろうか。動物を含めた他者に優しくあろうとすること、他者の気持ちを慮ること、有用な嘘をつかず、できるだけ正直であろうとすること、自分の感情を言語化できること、自分の思考を言語化できることであろうと思う。誰もが自分の子供にはそのように教えるはずだ。しかし、残念ながらそれらはすべてが間違えている。何故なら、社会がそれらの教育指針とは真逆の方針をひた走っているからだ。であるなら、こんな教えのようなものはただの欺瞞でしかない。

我々が生きるこの社会とは、自分より豊かな者を引き摺りおろそうと目を光らせ、弱者を見殺しにし、ときにその死体を踏みつけ、世間さまは毎日自らの暇潰しで他者を凌辱することに精を出し、逸脱するものをよってたかって蹂躙し、共同体からつまみ出し、しまいには糞まで投げ付ける。まさに、これこそが、我々の生きる正しい社会なのである。こんな社会でまっとうな人間など育ちようがない。だから僕は綺麗事が嫌いなのだ。どうせすべてが欺瞞だからである。そして、この教育と、この現実の途方もない齟齬こそが子供を苦しめ、生き辛くさせるのである。子供をまっとうでいっぱしの社会人に育てようとするならば、「自己の利益を最大化させるために、他人なんかどうなったって構わない」と教えるべきなのに、僕にはそんな簡単なことがなぜだかできなかった。つまり、息子はこれからの人生で、やり場のない憤懣をためこみ、苦々しい思いをするのは、もはや必然なのである。

 

 僕はすっかり諦めていた。しかしこの解決法がとつぜん見つかったのである。これまで僕は政府がなんにも国会で決められないように、野党になりそうな党に投票し続けていた。ぜんぶが無駄だった。どちらにしても、まともな人材なんてただのひとりも見当たらなかった。国会議員なんて、あらゆる欲にまみれた俗物だらけであるからだ。しかしこの度、YOUTUBEでひとり見つけたのである。その人の名前を「やすとみあゆみ」と言った。僕は彼の演説に惹きつけられた。「あゆむ」と呼ばれるとどきっとするので「あゆみ」にしたのだという。なにやら説明するのは難しいが、とにかく彼の言論は異彩を放っていた。是非見てみてほしい。れいわ新選組という政党である。代表を山本太郎と言った。原発が爆発したときに、よくメディアに出ていた人物である。彼と同じように僕も、原発は人間が扱っていいしろものであるとは思っていないが、その思いもむなしく原発は、なし崩し的に再稼働している。この国が、社会が、どれだけいかれているかの証明であるように思える。しかし、それにも関わらず、山本太郎は挫けずに頑張っていたのだ。僕なんていつだって口だけだったのに。彼の演説も見た。感動した。やすとみあゆみも、山本太郎も、自分が信じていることを正直に述べているように見えた。これらは他の凡庸な政治家には決して見られない資質である。僕は彼らを信じてみようかなとちらりと思った。

僕には信頼できる友人がひとりもおらず、コロナ騒動での現状の自粛生活も、ただの日常生活に過ぎない。国家も政府も既存メディアも個人メディアも誰ひとりとして信用できなかった。インフルエンザより怖くなさそうなウイルスに過剰に騒ぎたてているようにも思えるし、あるいはあべこべに安穏としすぎているようにも思えた。政府なんて相変わらずの無能だし、さまざまな問題行動を起こしてきたはずの与党を、野党はひたすら制御できない。僕の弟なんて、コロナウイルスなんてないと信じている。まるで信憑性のない動画をおくりつけてくる。

誰も信用できないし、なにが真実なのか、まるで分からなかった。とはいえ、外出時は必ずマスクをし、出先では会話を最小限に、小声で話し、必要最低限の経済活動に留めれば、少なくとも感染拡大を止めることに寄与できるのではないかと思った。しかしマスクをしないスーパーの店員は大声で「いらっしゃいませ」と脚立の上から言うし、トイレットペーパーはなかった。やはり人間なんて信用できないと思った。

だが、もしれいわ新選組が現内閣を討幕し、それでもやすとみあゆみと、山本太郎が正直なままだったら、もう一度、人間を信用できるかもしれない。僕は人間に絶望しているが、ほんの少しだけなら希望もみているのだ。もしも、人間が人間を信用できる社会になるなら、素晴らしいではないだろうか。消費税を0にしてもらえないとさすがに困るが、他の政策はできなければできないで、できなかったと言えばいい。そんなことよりも、この人は正直に、事実を述べていると思える人が、政治家であるなんてすばらしくないですか?山本太郎は演説で「綺麗ごとばっかだな」とよくヤジられている。しかし僕は思う。現状の腐った社会でまっとうなことをいえばそれらはすべからく綺麗事にしかならない。まっとうなこととはつまり、綺麗ごとなのである。僕と山本太郎は考えが非常に似ている。僕はすっかりひねくれてしまったが、山本太郎はまるでひねくれていない。これって凄くないですか?この駄文をここまで読んでくれた奇特な方は、支持政党があろうとなかろうと、次の選挙でやすとみあゆみと、山本太郎と、れいわに投票してくださいね。僕には三歳の子供がひとりいるけれど、友達がひとりもいないので、どうか一票をよろしくお願いします。ほんでやすとみあゆみや、山本太郎に騙されたと思ったら、僕は今後人間にたいして、いっさいの希望をもつことをやめます。

 

 

 

シェイプオブウォーターを3日間考察していたら、すっかり丸裸にしてしまった件

3日前の私は、シェイプオブウォーターは理性と欲望の戦いであると考えていた。しばらく三日前の私の考察につきあって頂きたい。

 

 理性を体現するのは、ストリックランドであり、まさしく冷戦時代までのアメリカにおける正しさの象徴である。夫婦の性交に快感があってはならないし、同性愛も自慰行為も、重大な道徳的退廃であるからとうぜん禁忌である。これらの制約はストリックランドの肉体への軽視にも現れる。いわば、精神世界へのひきこもりだ。また、おしっこの前にしか手を洗わないという超個人主義的な資本主義的成功と、神に近付くための身体性の放棄を両立させるというのは、破天荒というかなんというか、とにかく破滅への道としか思えない。

一方のイライザは欲望の象徴である。彼女にはまるで理性は見られず、皮膚感覚をもつ肉体の身体性こそをただただ体現する。日課の自慰行為のせいで遅刻寸前に出社してくるくせに、平然と行列に割り込むし、仕事はさぼるし、上司にはたてつくし、気のいい隣人をそそのかすし、しまいには映画館を水びたしにする。

この明確な対称性は、ストリックランドが言葉で、イライザが手話で対話することにも表れている。欲望のイライザに理性のストリックランドが誘惑されるのは、エデンの園で悪魔にリンゴを薦められて唾を飲み込むアダムのようであるが、ストリックランドはその誘惑に勝つのだから本当に鬼気迫るものがあった。

 

そうして理性と欲望は共倒れするという顛末だ。

 

 愛とはイコール欲望であるとするのはあまりに刹那的で安易に過ぎると思う。さらに肉欲と愛の強さが比例するという論理も、にわかに受け入れがたい。

しかし、ここまではまあ良いとする。私はストリックランドもイライザも、どちらも嫌いだが、そういった個人的な好悪を別にしても、この映画は駄作だ。もしかして、この映画を駄作たらしめているのは、あらゆる意匠を詰め込みすぎたことにあるのではないだろうか。なにより、しっくりこない。映画として、一貫性を感じにくいのだ。辻褄があわないのだ。

さて、ここでいう意匠とは、マイノリティへのあからさまな迫害や、トランプ大統領の唯一の愛読書である「ポジティブシンキング」をストリックランドに読ませるなどといった、いわゆるポリコレを全面に押し出した、アカデミー賞をとるための狡猾な「かぶりもの」のことである。

 

だが、デルトロ監督が自費を投じてまでこの作品をつくりあげたのは、作家性を守るためだった。この大いなる矛盾はなんなのか。あと、半魚人とはいったいなんだったのか。

 

そうして私は三日三晩悶々と悩みぬいて、あるとんでもない真相にたどり着いてしまった。ここからが、ようやく三日後のわたしの考察になる。

 


じつはストリックランドは理性の象徴ではなかった。というか、もっと厳密にいえば、彼はハリウッドの象徴なのである。

無慈悲な強権は商業主義の追及とプロパガンダの普及に注がれる。

そして同様にイライザは、作家性の象徴なのである。彼女の欲望は表現にたいする貪欲な渇望なのだ。

半魚人は、まさにそれらの作家性とハリウッド的な商業主義の、両方の側面をバランス良く持った生物なのだ。つまり、半魚人が象徴したのは、まさしくデルトロ監督その人であり、まんまとアカデミー賞を受賞せしめたシェイプオブウォーターという作品そのものなのだった。

 

こう考えると、さっきまでぼややんとしていた映画としての一貫性のなさに、一本の筋が通るのである。


観客の象徴になるのは、ジャイルズでありゼルダであろう。語り手のジャイルズにいたっては、この物語は愛と喪失の物語だとか、なんか勘違いしているのだなと思えるし、ゼルダが作家の作家性のために、ある程度の不条理を許容するというのは受け入れられる。ホフトステラー博士は、批評家を象徴しているか。

 

大衆をおおいに喜ばせつつ、痛烈な皮肉を背後に隠したまま、手練手管の映画界をも、まんまと騙す。

 

ハリウッド映画界に振りまわされ、辛酸を舐めさせられ続けてきた監督たちは、デルトロ監督の偉業に快哉を叫んだことだろう。

 

つまりシェイプオブウォーターとは、あまりに痛快なデルトロ監督の映画史に残る大勝利劇なのであり、作家性とハリウッド的商業主義の絶妙なバランスをとることに成功した半魚人的な怪物くんなのであった。


デルトロ監督はとにかくすごい人だった。これからは作家性だけを追及できるようになるといいですね。アカデミー賞おめでとうございました。私はそれを期待して次作を待ちわびることとします。