虫の息ブログ

生きているだけで、虫の息

表現は火葬場に、言論は土葬にしてこれを悼む

新潮45の休刊におもうこと

 

思うに、あらゆる追い風を受けて、お花畑とか砂浜を生きやすい生きやすいねうふふと笑いながら走り抜けてきた人たちによる過剰な傷つきやすさの投影が、実態と乖離した不寛容社会を産んでいるのではないか。LGBTを感情的(非論理的)に社会的弱者と認定することが、LGBTにとってなにか意味のあることとは到底思えないのだが、新潮社(つまり社会)は、多数派におもねらない言論の機会すら放棄してしまった。スポンサー(つまり多数派)におもねるばかりのメディアと、いわゆる有識者の言論にはほとほと飽き飽きしているし、すこぶる凡庸でつまんない。新潮社は出版社としての矜持よりも、利益を優先した。そのいかにも株式会社的な取捨選択はとうぜん理解はできる。しかし果たしてその選択が出版社にとっての延命となるのか、とどめとなるのか、個人的に後者じゃないのかなあと思う。どっちみち表現も文学も死に体だが。

 

また、政治は生きづらさを救えないを寄稿した小川氏がめためたに叩かれているようだが、現代道徳の検閲人には、「これはちょっとやりすぎかな」といった普遍的道徳のストッパーはないのだろうか。彼らは同じ口でいじめは良くないというのだろう。

 ネットに恣意的に抽出された小川氏の言論を見るとたしかにひどいものだが、小川氏は価値観カチコチで、早すぎる時代の価値観の変遷についていけないご老体のようにもみえる。ならばこれを多様性に内包してみせるという寛容さで許容できないというなら、それは未来の小川氏の数多の予備軍に過ぎないのではないだろうか。

 

今回の杉田発言によるひと悶着の雑感を、うまくまとめられないので、ブログ記事風の短編にしました。これよりこの問題を考えることを放棄することで、言論と表現に哀悼の意を表し、これを慎んで悼みます。

 

 

mushinoiki.hatenablog.com

 

 

あと、このまま成長を続ける資本主義を踏襲していくつもりなら、資本主義ピラミッド構造の最下層の貧困を救う手立てを考えないといけないよ。あるいはのべ五千万人の移民の受け入れ。それ以外のあらゆる議論も立案も、ポピュリズムか、資本家の靴ペロリズムに過ぎないよ。ゆめゆめ疑うなかれ。