虫の息ブログ

生きているだけで、虫の息

LGBTに生産性がないという発言を断罪封殺する現代道徳の検閲官たち

 

言葉を切り取り攻撃するという手法は日常的に行われており、これまでの僕は生温かい目で見守ってきたつもりだが、今回は何故だかわからないが見過ごせなかった。「LGBTに生産性がない」という発言から、はたして差別は読み取れるものなのか。これがね、ちっとも読み取れないのである。この発言に、LGBTを根絶やしにしろとか、生産性の低い人間は切り捨てろなどという意味が内包されているだろうか。どこにもないような気がする。それから経過を見ながらもずいぶん考えてみたのだが、どうにもこうにもやっぱりなんにも読み取ることができず、すこぶる腑に落ちないままなのであった。

 

やがて思い至った違和感の正体は、アメリカのドラゴンボールでミスターポポの唇が塗りつぶされていると知ったときの、そこじゃない感であった。いわば、的外れの忖度。黒人は唇が厚いことを気に病んではいない。ひとりの人間として尊重してほしいだけだろう。その見当違いの配慮が、白人の白人至上主義を浮き彫りにしてはいないだろうか。今回のこれも、僕にはひどく良く似た構造に思えたのである。そして、言葉を切り取り攻撃することができるなら、切り取った言葉の擁護もできるはずだ。

 

生産性がないという言葉には、さまざまな理由で子供をつくれない。あるいは、金儲けができず、金回りもよくない。という意味があると思われるが、このどちらがなくても人は粛々と、運に恵まれれば幸福にさえ生きていけるものだ。資本主義社会の立派な歯車になることは、人間の最たる務めではないからだ。僕はこれを自明のものとして認識している。

 

村田沙耶香の「コンビニ人間」では、社会にうまく馴染めない主人公の女性がコンビニでバイトをはじめるのだが、そのとき以下のような記述がある。

 

その時、私は、初めて、世界の部品になることができたのであった。

私は、今、自分が産まれたと思った。

世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。

 

この文章は「そうだ!良くやった!頑張ったな!」と感動して読むのが正しいのだろうか。

僕はそうは思わなかった。僕としては、いやいやそうじゃないだろう。と、ちょっと笑ってしまうような場面なのだが、今回の炎上の経過を観察したところ、ひょっとすると、いわゆる世の中の著名人や知識人、あらゆる多数派の人たちは、この場面で快哉を叫ぶのかもしれないぞ。というあたらしい疑念が、怖気を伴い産まれはじめた。

かれらは資本主義の文脈にがんじがらめに囚われおり、囚われているからこそ、充分な生産性を手中に収めることができたのかもしれない。その強固で浅薄な価値観からすると、生産性がないとされることは、もっとも恥ずべきことで、もっとも同情すべきことなのかもしれない。つまり彼らこそ、生産性がない人間を心の底から見下しているのではないだろうか。この考察は、いまのところずいぶん当たっているような気がする。

 

僕がもっともショックだったのは、ふたりの作家がツイッターでこの発言をいかなる説明もなく差別と断定し、さらには、杉田水脈発言を擁護する稿を乗せた新潮45という雑誌と新潮社に対して、ちょっとした圧力をかけたことである。ある言論にたいして、賛成、反対の意見を出版社が公平に乗せるのは、言論機関の務めであろう。そしてその言論の是非を判断するのは、我々読者であっていいはずだ。しかし彼らは、新潮45を読むと、あらゆる人間がたちどころに差別主義者へと転向するはずと、気に病んでいるのだ。これほど読者を馬鹿にした作家たちがこれまでいただろうか。

 

平野啓一郎は「どうして、あんな低劣な差別に加担するのか。わからない」と述べたあと、佐藤義亮を引用し、「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」とツイートした。

 

星野智幸のツイートはもっとすごい

「差別の宣伝媒体を会社として野放しにすべきではない」

「人を死に追い込む言論は、自由な言論ではなく、暴力であることを、言論機関は学んでほしい」

 

彼らはいったい「LGBTには生産性がない」発言のいったいぜんたいどこにそのような大仰な差別を感じたのだろう。ここまで言うからには説明があってしかるべきと思うが、ほんとうに一切説明がない。おそらく彼らにとってはそれが自明のことだからだ。この二人の作家は、個人的に好きな作家であった。だからこそ呆気にとられたし、少なからず動揺もした。

 

同時に彼らの資本主義に囚われた強固で浅薄な価値観で書かれた小説を面白いと思ってしまった過去の自分をこっぴどく殴りたい気持ちにもなった。

 

彼らは一切の自問のない正義を振りかざし、言論を「臭いもの」として封殺せしめんとしており、出版社をも気ままに貶めているのだ。いったい何様のつもりなのだろうか。まるで、現代道徳の検閲官気取りではないか。僕はこういった人間を厚顔の偽善者とよんでいる。

 

 とどめにこういった人間がしたり顔で文壇に座っていることが、もはや文学と文学の歴史への冒涜のようにも感じられるし、哀れにも彼らは文学者としての素養の欠如を高らかに世に宣言してしまっているのに、それに気付く素振りもない。

 

 と、ここまで書いていたらまた怒りが込み上げてきた。自分が生産性に乏しいからだろうか。もしかすると僕は、自分で思っているよりも、自分の生産性が乏しいことを気にしているのかもしれない。いや、傲慢にも僕は日本文学が偏った思想によって、あらぬところに誘導されることを憂いているのかもしれない。

 

 

ずいぶん前から、9月28日に発売される平野啓一郎の「ある男」を楽しみにしていたが、読んでも素直に楽しめない気がしている。作家の人間性と作品の面白さに相関関係がないのは実感として知りつつも、このような狭量な価値観の人間が書いた小説が面白いわけがないというバイアスはどうしてもかかってしまうだろう。国内作家の不作に喘いでいる僕としては非常に悩ましいところなのである。

 

 

ちなみに平野啓一郎が作品内で提示する「分人主義」は、仕事をしている自分、家族といるときの自分、一人でいるときの自分が、それぞれ違う人間であって当然という思想だ。だから氏の今回のツイートが一人でいるときの平野なのか、編集者といるときの平野なのか、はたまたツイートをするときの平野なのかが傍目からは分からない。こういう器用なことができるのは、頭脳が明晰な証拠だと思うし(彼の作品を読んでもそれは分かる)、現代を上手に生きるために必要な自己の矛盾を正当化する二重思考的所作は、非常に洗練された技術だとも思う。あと星野智幸はもっと奇天烈で面白い人なのかと思っていた。彼らへの意趣返しとして、不買や抑鬱になってもいいのだが、穏当な社会生活を営む市民としてはあまりに大人げない行為だし、これを不屈の精神力で自制して自重することを高らかに宣言し、本稿を終えます。少しスッキリした。