虫の息ブログ

生きているだけで、虫の息

上田岳弘「私の恋人」の書評と雑感  

 

タスマニアは、彼らの人間の肖像にもかかわらず、完全に50年の間に、ヨーロッパからの移民によって繰り広げ絶滅の戦争で消滅するので流された。

 

「私の恋人」は、ウェルズの宇宙戦争の一節をGoogle翻訳にかけて生まれた上記の奇妙な文章から着想を得た小説である。この当時Google翻訳はとてもいい仕事をしていたといえるのだが、現在は翻訳の質も上がってしまい、下記のようになってしまった。

タスマニア人は、人間の姿にもかかわらず、50年の間、ヨーロッパの移民によって撲滅された戦争で完全になくなりました。

 

これでも優れた翻訳であるとはおよそ思えないが、しかし、これでは「私の恋人」は確実に産まれないので、危ないところだったのではないかと思う。

 

限りなく余談であるが、最近間違って僕のはてなのブックマークをお気に入り登録してくれたオースティンバーグという外国人がいるのだが、興味本位で彼のブログ記事をGoogle翻訳にかけてみたとき、このような魅力的な文章が現れたことを紹介したい。

 

準備はできたか?

彼らはひびがはいった苔むした舗道に立っていた。明るい青色の岩とセメントの塊が洞窟の周りで崩壊し始めたので、それらの上の天井の雲がぎこちない。世界が終わりに近づくにつれ、周りからの激しい衝突が起こった。

 

こんな風に、今でもGoogle翻訳はとびきりよい仕事をするのである。

とくに、天井の雲がぎこちないという部分に詩情を感じる。

 

本来の文章は英語なので僕はそれを理解することはできないが、AIが詩情を持つという可能性を示唆したこれらの文章は興味をそそります。はたして今後の人類の発展にたいしてAIはどのような相互性と意味を持つのだろうか。

僕はもともと詩情とまとまりのないGoogle翻訳っぽい文章を書くが、Google翻訳に引き摺られるように、さらにGoogle翻訳っぽい文章になってしまった。Google翻訳でなにか面白いことができるかもしれない。

 

 個人的には、AIが人類の座にとって代わるようなことが起こるとは思っていない。AIが自我を持つことは今後もないだろうし、そもそも彼らは人類の覇権を奪還しようなどと意味のないことは考えない。しかし、AIに人類の意志や思考や倫理が代替されるということは十分あり得ると思うし、実際そうなりつつあるのではないかとも思う。

 

もしAIが人類の覇権を奪還しようと画策したなら、それは人類の覇権を人類の手から奪還せよという命令が人類によって与えられたときでしかないだろう。そうしたコードを書き、エンターキーを押すことが、人類にとって正義なのか悪なのか、僕には分からない。

 

さて「私の恋人」である。

Google翻訳によって産まれた「繰り広げ絶滅の戦争」という言葉から、作者は想像の大風呂敷を広げていったのだが、これがじつに面白い小説となった。なによりこの小説が面白いのは「私の恋人」という想像の産物に、人類の理想や希望が託されていることで、またそれらが我々人類のもつ愛というほとんど形骸化した概念と密接に繋がっていることではないだろうか。つまり作者は人類を冷徹に眺めてはいるが、人間性の根源のどこかに微かな希望を持っていて、しっちゃかめっちゃかの思考錯誤を日夜繰り広げているといえる。この試みが面白くない訳がないのである。

 

人類の希望を託されたキャロライン・ホプキンスは、反捕鯨活動に勤しみ、「かわいそう」の中心を拡げていくことで、人類を救えるのではないかと考える。またテロリズムに要求されるだけ、身代金を払いまくり、貨幣の価値をなくすことで、新しい人類の価値観が産まれるのではないかなあなどと夢想したりもする。この小説は、そうした思考の行き止まりへの旅なのだ。

 

僕としては、人間とはとっても卑小で猥褻で俗悪な生き物であることを自覚することがはじめの一歩だと常々思っているのだが、なぜだか人類は人間がこれからも発展し続けるにふさわしい、高等で高尚な生き物であるという考えを決して捨ててはくれない。社会のもつ過剰な忖度による不寛容さは、我々数十億のビッグブラザーによる監視によってもたらされている。それらが差し出してくる倫理は、本来の人間的なものとはかけ離れてきている。なにしろ男が女を好きで、女が男を好きであるという根源的な事実すら、否定されはじめるような、しあさっての道徳なのだ。僕はこのあまりに脆弱なはりぼての均衡にこそ不安を抱いてしまう。

 

ならば、人類が文明を継続的に維持していくために必要なことはなにかをAIに聞いてみるしかないのかもしれない。いったい彼らはなんと答えるのだろう。人間の考えた合理化、効率化の3週目の旅の果て近くが、現状の有様なのだとするなら、人間の表層の利害とは隔絶したAI的な観点がこれからどうしたって必要になってくるのかもしれない。

 

滝口悠生「高架線」の書評と雑感

 

 現代の高度に情報化された社会でほんとうの意味で「いい人」であり続けることは、とても難しいことだ。なぜなら「いい人」であるためには、根底に人間への信頼という基礎が絶対的に必須であり、これがなければとうぜんなんにも成り立たない。この、ほとんど性善説とも思える高いハードルは一方向的に日々更新されていて、いつしかそれを越えられなくなったとき、人はもはやいい人ではいられない。人間という生物にたいして、根底から疑心を抱いてしまうからだ。この疑心は他者だけでなく、自己に対しても産まれ得る。

 

しかし、この作者の語りはいつも、どこか昭和的で牧歌的な、「いい人」なのである。

 

僕はこのからくりが知りたい。

滝口悠生はほんとうにいい人なのだろうか。

この現代で人はいい人のままでいられるのだろうか。

 

これは、そういう甚だ間違った視点で読まれた高架線の書評と雑感である。

「高架線」は、かたばみ荘に住んだ5人ほどの人物の視点によって、かたばみ荘を中心にして起こったことがそれぞれ語られるという小説だ。さて5人もいれば、それぞれの自己正当化によって記憶の改変がおこり、事実はねじれ、まったく異なる形の禍々しい「かたばみ荘」が現れることになるかと思うが、この作者の手にかかると、やはりまったくそんなことにはならない。

 

新井田千一の語りでは、学生時代の文通相手のことが語られる。

顔も知らない成瀬文香という女性のイメージが虚構であったことを語り手は自覚している。

しかし語り手は、自己と他者でつくりだした虚構の部分のみを、淡い初恋の思い出として、大切にしまっている。これは「かたばみ荘」とは直接関係ない話だが、非常に小説的なエピソードになっており企みを感じる。

小説とはそもそも虚構の集合体であり、これをどれだけ現実的な手触わりの虚構にできるかが、作者の力量であり、読者(僕)の力量でもあるから。

 

さて次の語り手は、新井田千一のあとに住んだ住人である片山三郎の友人の七見歩である。なぜだか次の住人である片山三郎は、この小説の語り手となって物語を引き継ぎ、自己を語ることをしない。七味歩をはじめとする語り手たちが、それぞれに映る片山三郎という人物像を語るのである。そして語り手たちもやはり自分については、あんまり語らない。つまり、自己というフィルターを媒介して、それぞれがそれぞれの他者を語りがちなのだ。

しかし、おそらく片山三郎が語る片山三郎よりも、他者にそれぞれ語られる片山三郎のほうが、どちらかというと信頼できる。片山三郎は他者によって、虚構というしがらみから、技術的に解放されるのだ。

これは作者が語り手を信頼していないという事実に他ならない。もしかして作者はいい人ではないのだろうか。いや、そもそも語り手が虚構であることにもっとも自覚的であるのは作者であるはずなのだが。

 

そのようにして、語り手、物語、かたばみ荘が、他者によってその質感をリアルにしていくさまは、虚構が虚構によりかかって依存して、存在しているともいえる。なんでそんなことをわざわざするのだろう。現実も、他者の存在と嘘によって形作られているいっぱしの虚構であることを、暴露しようとしているのだろうか。だとしたらやはりこの作者はいい人ではないではないか。それじゃあこの溢れる「いい人」感はいったい、なんなのだろう。

 

じっさい、かたばみ荘にまつわる物語は引き継がれ、引き回されて、かたばみ荘は最後に取り壊される。虚構は虚構によって丹念に構築され、虚構によって破壊されるのである。残ったのはいっそう強化されたそれぞれの虚構なのだった。そして虚構の残骸から突如現れたモチーフのあまりの嘘くささが、所詮、虚構は虚構であったことを、自ら悪びれもせず明かすという、ほんとうに、変な話であった。

 

どうか騙されないでほしい。

作者は高架線を走る電車から、看破した虚構の成れの果てたちを見下ろしながら、悠々と物語を去っていく。滝口悠生は、にくにくしい、たぶん本物の嫌なやつなのであろう。好き。

 

 

富永しのぶという女の空白と欠落の真相

駄文と序文

木なんてどこにもないのに蝉の声がする。アスファルトが溶けて白線がにじんでいる。雑踏がまるで人間のバーベキューのようだなと思った。さっきから頭が朦朧としていて、故郷のあの憎々しい蝉の声を脳が勝手に再生しているのだと気付いたときには、もう風俗店「マラベラス」の店内に入っていた。店内は空調が効きすぎるほど効いていて、途端に汗が引いていく。

 

13年前に富永しのぶを取材した日付のついたメモ書きである。ほとんどねつ造されたメモだった。人間バーベキューだなんてそんなことたぶん思っていないし、私が憎んでいるのは蝉の声などではなく、故郷の波の音だった。こういった意味のない文章を書いて悦に浸っていた若き日の何者でもない自分に、まともな取材なんかできるはずがないと思うが、意外にもそこそこ読める代物になりそうだったので、当ブログで公開しようと思う。アンダーグラウンド界隈での伝聞以外は、どこにも公開されなかった取材の記録も交えるつもりだ。

 

当時公開されなかった理由は、富永しのぶの事案が芸能界の大手事務所の若手俳優Yの大スキャンダルに相当したからだ。富永しのぶはYとねんごろの関係にあり、悪いことに彼女は風俗嬢であった。関係する記事は全部事務所に売った。今ではYも見るも無残な老いた肉塊であり、記事を公開することを咎める者は誰もいなくなった。しかし、当時私が取材したかったのは、芸能人のゴシップなどではなかった。富永しのぶという人間の少女時代に起こった3か月間の失踪の真相と、それが彼女にもたらした欠落についてだった。これらの取材を重点的に文字起こししていくことになるはずだ。

 

 

富永しのぶという女の容貌

欲のなさそうな凡庸な顔立ちだ。切れ長の目だが冷たい印象を与えないのは、口元に絶えず浮かぶ微笑のせいだろう。ほどほどに肉感的な体であり、風俗嬢としては中の下といったところか。私は彼女を指名し、会うなり名刺を渡し、Yの取材で来たと伝えた。慇懃で不躾だが、本来の取材の目的から目を逸らすためにも、敢えてそうしたのだろう。

 

 

Yとの関係性

 

突然Yの名前が出たにも関わらず、しのぶはいっさい顔色を変えず、別段嫌な顔も見せなかった。Yは彼女にとって特別な存在ではなく、職務上の関係でしかないようだった。

 

「それで、今はYのことはどう思っているの?」

私はズボンを脱ぎながら、しのぶに聞いた。

「もともと彼が芸能人だって知らなかった。ぜんぜん有名じゃなかったし。それに私、モテそうな人って好きじゃないからさ、たぶん興味もなかったと思う。彼は良いお客様だったの」

しのぶがYのマンションに二年近くお忍びで通っていることは既に裏がとれていた。

私はパンツを脱ぎながら問う。

「二年もプライベートな関係を続けたのに?」

「だから仕事よ。彼は私の仕事を高く評価してくれて、相応の対価をくれていただけ」

「ちなみに私はどうかな?モテそう?」

「うーん、にじみでる男尊女卑の価値観が本質的な感じがするから多分モテないと思う」

当たっている。しのぶに促すと、彼女は頷いて私の棒を包んだ。少しひんやりしたあと、ねっとりとした粘液に完全に包まれた。思わず感嘆の声を漏らすと、しのぶが柔らかに笑って言う。

「ほら、すごく優しい顔になったよ」

「この仕事好きなの?」

「ええ。男に喜んでもらうのが最高の癒し」

事実、しのぶの奉仕性は素晴らしかった。私の棒を愛おしむように丹念に丁寧に刺激し、もだえる私を見て彼女も興奮を隠せないようだった。私は追加で3万払って本番まで楽しんだ。私はすっかりしのぶの魔力に囚われ、それから三年も「マラべラス」に通い詰めることになる。こんなに時間をかけては、純粋に取材のためとはとてもじゃないが言えないだろし、言うつもりもない。

 

愛とはなにかをしのぶに問うたことがある。彼女はこう答えた。

「肉体的な繋がりがない期間を、苦しいと感じること。幻肢痛みたいなものだと思う」

なるほどと思った。まさに当時の私がしのぶに感じていたことだった。テレビでYの姿を見ると私は正視できず、体が勝手にチャンネルを変えてしまう。私はYに嫉妬し、心の底から憎んでいたということだろう。Yほどの金銭をしのぶに支払う能力が私にはないからだ。

 

少女時代に起きた三か月の空白について

 しのぶはやはりそのことを何にも覚えていないようだった。琵琶湖のほとりで忽然と消えた若干10歳の女の子。当時は地元の新聞を随分賑わせたのだが、両親や周囲も、とうぜん彼女に事実を伝えなかったのだろう。三か月を経て、彼女は失踪したときとまるで同じ装いで戻ってきた。栄養状態も極めて良好。普段と変わらぬ落ち着きを見せており、受け答えもしっかりしていた。しかし、一体なにが起こったのか、彼女は決して話さなかった。

 

失踪の真相についての調査

私はマラベラス通いと平行して、当時の事件も調査していた。すると同様の事件が広範囲で観測できることに気が付いた。福井、愛知、岐阜などの地方都市から果ては熊本まで、同様の事象が西日本に分布して見られたのだ。被害は女児に限らなかった。総勢11名の児童が失踪し、その後ちょうど三か月を経て戻ってきていた。事件の間隔になんら規則性はない。私は次に起こるであろう児童の失踪事件にアンテナを張った。やがてそれは岡山で起こった。

 

私としのぶの三年にも及ぶ蜜月が終わりを告げたのもちょうどその頃だった。

あの頃は毎夜、身体が焼けるほど、私はしのぶを求めた。私を癒すことにあれほどの情熱を傾けてくれた彼女はまたしても忽然と姿をくらまし、二度と姿を現さなかったのである。まさしく彼女は、やさぐれた男たちの女神だった。分かってはいたが、結局、どんな女もしのぶの代わりにはならなかった。

 

13年後に訪れたしのぶとの再会

私はこれまでしのぶを探すことをしなかった。彼女が私を捨てたことが分かったからだ。しのぶは老いた肉塊と成り果てたYと一緒に暮らしていた。このブログを書くにあたって、私は意を決してアポイントをとった。私はしのぶとYが暮らすマンションに向かった。扉を開けると、しのぶは昔と変わらぬ笑顔で迎えてくれた。少しふっくらとした丸みが頬についているが、ほとんど変わっていなかった。

「変わってないね」

「嘘よ。年をとったもの。私もあなたも」

私はすっかり落ちぶれてしまった。それはYも同様だった。しのぶに案内されて室内に入る。すっきりと整頓された清潔な部屋だった。ソファーにはうずもれるようにYがいた。彼に会釈をし、しのぶと軽く近況などを話していると、Yが立ち上がって、居心地が悪そうに言う。

「ちょっと、コンビニに行ってくるよ。すぐ帰ってくる」

Yが出ていくと、しのぶが悪戯めかして言う。

「どうせパチンコよ」

「しばらく帰ってこない?」

「ええ」

ところが、私には次の言葉がまるで出てこなかった。しのぶと交わすための意味のある言葉を私はただひとつとして持っていないのだった。しのぶはあの頃のように、優しく微笑んでいる。私はズボンのポケットから財布を出して、三万円を広げてみせた。

 

斉田重雄という狂った老人

 

さて、10年ほど前に岡山で起こった9歳の男児の失踪を受け、私は急ぎ岡山に飛んだ。男児の失踪した山間の町に根を張り、同業の記者の手も借りて、情報を収集した。近くに最近引っ越してきた不審な新参者がいないかどうか。それだけをひたすら調べた。そうして斉田重雄という69歳の老人が浮上したのである。もちろん他にも候補はいたが、家族がいたり、若かったりしたし、なにより彼らは一様に目が平凡だった。ところが斉田は違った。斉田の目は涙ぐんだように潤い、狂気じみた光を放っていた。三か月が経ち男児が解放されると、案の定、斉田はキャリーケースをからからと引っ張りながら、玄関から出てきた。私はほとんど激昂し、老人の胸倉を掴み、キャリーケースごと部屋の中へ引き摺り倒した。扉を閉めると、私は老人を力の限り殴打し、馬乗りになって言った。

「なぜだ、なぜこんな真似をしている」

「私はなにも悪いことはしていない」

老人は観念したのか、全身をぐったりと弛緩させている。

しかし言葉は裏腹に、なにもしていないと宣うのだった。

私はもう一度、老人の顔面を殴打し、キャリーケースを開けた。

そうして一冊の古びたノートを見つけたのである。これを読み、私は数えきれないほどの殴打を老人に浴びせることになる。

ノートの内容はこうだった。

 

貨幣を神とする資本主義からの脱却のために、全知全能の神の教えを宣託する。

これは永劫の平和のための、崇高な社会運動である。

和同開珎を用意する。色合いのよく似た糸を通し、この揺らぎと共に宣託の復唱をさせよ。

家族を愛さなければならない。

次に隣人を愛さなければならない。

人に危害を加えてはならない。

お前が好ましくないことを他者にしてはならない。

求める者には与えなさい。

貨幣的な価値、資本主義的な価値観を蔑みなさい。

これらの信念を忘れて堕落した者には裁きが下るだろう。

これを百度復唱する。

その後、充分な休憩と食事を与えるが、過度な睡眠を与えてはいけない。

神のしもべとなった子羊たちは、すべてを忘れるだろう。

教義は心に刻み込まれるのだ。

 

この事件が明るみに出て、私は一躍有名になった。可塑性のある少年少女をさらって洗脳するという行為を斉田はひとりで行っていた。小規模ではあるが、あまりにも卑劣で陰湿な事件だった。もしかしたらご存じの方もいるかもしれないが、三週間の拘留を経て私は解放された。もちろん罪には問われなかった。私の鉄槌は過剰であるとされたものの、それらはすべて義憤によるものだったのだから。

 

これよりさらに詳しく知りたい方は、「現代の神隠し。斉田重雄の狂気」を検索して、アマゾンで購入してほしい。当ブログはいまだアフィリエイトの審査が通らないので、リンクを張ることができないことを重ねてお詫びする。

 

 

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